古来、米には特別な力が宿ると信じられてきた。
米は神事に欠かせないものであり、神様への供物として捧げられる神饌(神の食事)もご飯や餅、酒など米を材料とした食べ物が中心だ。
稲作民族の日本人にとって米は命の源であり、稲魂が宿る神聖な穀物と考えられたものである。
神聖な食べ物
米と神道との深い関係は全国の神社の頂点に立つ伊勢神宮の祭祀にもみられる。
皇祖神の天照大神を祀る伊勢神宮では、約1500年に渡って「日別朝夕大御饌祭」が続けられてきた。
1日2回神宮の神々に神饌を供えるこの儀式では、米は特別の地位を占めている。神饌の米は「神宮神田」と呼ばれる清浄な水田で育てられ、精進潔斎した神職によって古式ゆかしく調理されるのである。
また、四季折々に行われる伊勢神宮の祭祀も、米作りが中心テーマとなっている。
2月の祭では1年の豊作を祈願し、4月の神田下種祭では稲の種まきが行われる。10月の神嘗祭は、稲の初穂を神に捧げて収穫を感謝する最も重要な祭であり、11月には、天皇陛下が神々とともに初穂を召し上がる新嘗祭りが行われる。なお現在では、大嘗祭とは、天皇陛下が即位して最初に行う新嘗祭のことだ。
このように、伊勢神宮の祭祀の、祭祀の根幹をなすのは五榖豊穰への祈りであり、儀式は稲作の年間サイクルに合わせて行われる。天皇が大嘗祭や新嘗祭を行うのは、米の霊力を取り込むことでリフレッシユし、新しい王としての霊力を更新するためのものなのである。
お米に宿る神様
日本書紀によれば、このシステムが確立されたのは7世紀頃。それ以前にも五榖を用いた新嘗祭は行われていたが、米を特別な地位に引き上げたのは、天武・持統両天皇が築いた律令国家だった。米は天皇の王権の農となり、太陽神・皇祖神の天照大御神は、稲作社会の王である天皇が祀る稲作の神ともなった。
米に宿るのはどんな神様なのか。
古事記、日本書紀には、米とゆかりの深い神々が登場する。その代表格といえるのが五穀豊穣を司る宇迦之御魂神だ。
「稲荷神」とも呼ばれ、稲を背負った姿で描かれることも多い。いわゆる「お稲荷さん」である。ただし、稲荷も初めから稲と結びつけられていたわけではない。記紀神話には、米自体を神格化した神はあまり見当たらない。米自体に霊力が宿るのだから、ことさら一定の神格を与えなくてもいいわけである。
稲魂信仰
むしろ、稲作の神としてなじみ深かったのは、田の神や年神であった。季節ごとに田の神への豊作祈願が行われ、正月には年神が来て新たな霊力(年魂)を授け、1年の実りを約束すると考えられた。
年魂とは稲魂のことで、古代人は、米には強い霊力があると信じていた。この稲魂信仰をべースに、さまざまな神仏が米に宿るという諸説が展開していった。こうした稲魂信仰は年中行事と結びつき、日本人の暮らしのなかに深く溶け込んでいく。
日本の伝統的な行事に使われる米
日本の伝統的な行事にも米と関係したものが多い。
例えば、行事食として餅を食べる習慣もその一つである。
正月には、もち米で作った鏡餅を神棚に供えて年神を迎える。「鏡開き」の日には、鏡餅を割って食べれば、年神の霊力を授かるとができると信じられた。
また、3月の「ひな祭り」には、赤・白・緑の3色のひし餅を食べる習慣がある。赤には病気予防、白には清らかさ、緑には厄除けの意味があり、ひし餅には女の子の成長を願う思いが込められていた。
年中行事には稲作に関わるものも多い。
例えば立春から88日目の八十八夜(陽暦5月1、2日頃)に新茶を飲むと、1年間無病息災でいられるという言い伝えがあるが、この日は春から夏への変わり目で、田の神を迎え、種まき適期の目安となっていた。
季節の節目に年中行事が行われたのは、いわば働きづめで電池切れになった心身を充電するためだ。人々は農作業が一段落するたびに、田の神に祈りと感謝を捧げた。そして、米の霊力を秘めた餅を食べて、元気を取り戻したのだ。
餅を食べることには別の意味もあった。季節の節目には邪気が人り込みやすく、霊的な守りを固める必要があると考えられた。冬至に小豆粥を食べるのも、1年で最も夜が長い冬至には、邪気の影響を受けやすいからだ。
小豆の赤には魔除けの力があり、病気予防に効くと考えられていた。これを霊力のある白米と組み合わせて粥にし、紅白の対比的な力をイメージすることで、より強力な効果を得ようとしたのだ。
年の暮れには餅つきと鏡餅作りが行われ、大晦日には心身を清めて新しい年神を迎えるのが占くからの習い。このように、日本の年中行事は、1年のサイクルを繰り返す稲作のリズムによって成り立っている。これが日本が「瑞穂の国」と呼ばれる由縁だ。
日本人にとって特別な食べ物となった米
なぜ、米は日本人にとって、特別な存在となったのか。それは、米が極めて政治的な食べ物だったからだ。
2003年、国立歴史民俗博物館のある調査報告が世間を驚かせた。北九州の遺跡の出土品を放射性炭素法で測定したところ、従来の定説より500年も早い紀元前10世紀に、稲作が行われていた可能性が高いことが分かったのだ。
一方、南関東地方で稲作が始まったのは紀元前2〜3世紀頃。稲作が九州から関東に伝わるまで、実に7世紀もの歳月を要したことになる。
米を受け入れるのに、なぜこれほどまでに時間がかかったのか。
一つには社会的な要因が考えられる。灌漑による水稲稲作には多くの人手がかかるため、それを実現するにはとシステムが必要だった。稲作は富を独占する階級と収奪される階級を生み、支配と被支配との関係をつくり出した。稲作は権力と結びついていたがゆえに、それに対する人々の抵抗も強かったのだろう。稲を栽培しなくても生活できたからだ。それが、九州から関東への稲作の伝播に7世紀もかかった理由と考えられる。
飛鳥時代に入ると、天武・持統天皇の時代に律令制が完成。天皇を頂点とする化が進められた。この律令制を支えたのが、「租庸調」による徴税システムだ。
米は国を支配するための道具となり、天皇の王権を支える役割を果たした。一方で、天武・持統天皇は、王権強化のために天皇の神聖化を進め、皇室の祖先神を祀る伊勢神宮の奉斎に力を注ぐ。
天皇が食べる米は御贄の一種であり、それを収穫するための特別な神田が作られた。御贄は神饌としての色合いを帯び、天皇は神の子孫としての性格を強めつつあった。米は、財政と祭祀の両面で国家の構造を支え、その存在感を一層強めていったのである。
米は非常に優れた性質を持つ穀物
ではなぜ米はそれほどまでに政治的な重要性を帯びたのか。
米が政治と結びついたのは、米という榖物が非常に優れた性質を持っていたためだ。米は味が良く、食べると力がつき、しかも保存か利く。まさに三拍子そろった特別な食べ物で、干した飯は戦陣食にもなった。要するに、米を独占すれば人間を掌握することができたのだ。一方、米が特別な性質を持つことから、『米には霊力が宿る』と考えられていた。それが稲魂信仰や榖霊信仰だ。そうして、古代国家の下で米は政治と信仰の両面で、特別な存在となっていった。